昭和五十七年五月十九日 朝の御理解


御理解第九十節

「上から下に水を流すのは容易いが、下から上へ流すのは難しい、道を開くと云うても匹夫の俗人から開くのぢゃから、ものが難しうて暇が要る、神のおかげで開かせて貰ふので假令一時は難しい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる」


 暇が要るとか、難しいとか、と云うふうに此処では表現してあります。結局、匹夫の俗人から開くのぢゃから、ものが難しい、暇が要る。
 私は、その暇が要る、と云う事は時間がかかる、と云う事だと思うんですけどもね。
 難しい、と云う事は、神様だからと云うて一遍におかげを頂く、と云う事はない、と云う事だと思うんです。
 だから、その日その日が有難い、と云う信心を身に付けていく限り、難しければ難しい程、喜びがあり楽しみがある、と思うのです。 何の稽古事でも、簡単に出来る稽古事と云うのは、大して味のあるものではありません。
 やはり難しい、と云う稽古事に取り組んで、それが少しづつでも身に付いていく、と云う事が楽しいし、有難いものであるように、信心も同じ事。
 だから信心はね、難しいとか、暇が要ると云う事は、これは私自身の事を思うてみましても始めから合楽が今日のようなおかげを受けておった訳ではありませんね。
 一から十、十から百、と云うふうに段々、段階をおうておかげを頂いてきて、これからも又、限りなくおかげを頂いていく事でありましょうけれども、その時点時点で、難しい事であればある程に信心に熱が入ってきたしね。
 時間がかかればかかる程、今迄知らなかった新しい信心の分野を開かせて頂く楽しみがありましたし、これだけのおかげを頂いたから、もうこれでよい、と云う事もないね。
 此処一両日頂いておる御理解なんかは、新しい合楽の信心の分野と云うても良い位です。
 そういうものが開けてくるのですから限りがないのです。
 だから楽しいんです。有難いんです。
 信心とは難しいものと云うのと、例えば神様にお願いをして一遍に御利益を受けて幸せになる、と云うような考え方がありますね。 そうではない。一歩一歩、我心が神に向うて進んでいく楽しさと云うもの、喜ばしさと云うもの、これは、本当に信心が分かっていきますとね、信心が確かに有難くなるのです。
 私は此処の御信者さんの一人一人にそれを感じますねえ。
 但おかげ頂きたいばかりに合楽に参りよった、但自分の願い事の成就だけを願いよったね。
 そして成就しないと、おかげ頂きらなかった。頂きらなかっただけなら良いけれども、いかにも神様がないような思い方をする人すらあるのですね。
 信心が分かって育っていく、と云う事は素晴らしいです。楽しいですね。
 難しい事があればある程、時間がかかればかかる程、それこそ時間をかけて、ゆっくりと本当のものに触れていけれる、本当なものが頂いていけれる、と云う楽しみ。
 私は、そういう信心の軌道と云うものが、出来て来なければいけないと思うですね。
 最近思いますんですけども、今日もお参りになっとります福岡の原さんの場合なんかは、まあ本当に、苦し紛れの信心であったり、お願いせんならんからの信心であっただろう、と思うんですね。
 だから、この人は信心が分かっていきよんなさっとぢゃろか、と思うような時もあったです。
 所が段々、まあ血に肉が通うて頂けるような信心になり、鮮やかなおかげになってきたし、もう本当に有難い、と云う感じですね。 お取次さして頂いて、最近なんか特に霊様を大切にされますが、月々のご主人のお立ち日には、それこそ思いを込めて甘菜、辛菜を自分でお作りになったり、買うてみえたりする。只、霊様へ玉串をあげさせて頂くだけの事ですけれども、その事にわざわざ時間をかけられる。
 例えば、ぼた餅を作る事に時間をかけられる。
 わざわざ朝参り夜参りぢゃなく、今日は主人のお立ち日だからと云うて、何か心勇んで参っておられるものを感じますね。
 この辺になってくると、信心は楽しくなり、有難くなっていくばっかりですよね。
 信心しよるけんこうせんならん、と云ったようなものではなく、させて頂かずにおれない、と云う心が弾んだ心です。
 稽古事と云うものは、イヤイヤながらの稽古ぢゃダメです。弾んだ心です。
 今日はどういう事を教えて頂くだろか、と云うような弾んだ心でまいりませんと、やはり時間がかかったり、難しかったりで「とても、私には信心は出来ん」と云うてね。
 暇が要るとか、時間がかかるとか、難しいければ難しい程勉強の楽しみがある。と云うような信心を頂いていく。
 その信心をしていくうちに徳が受けられる、と仰せられますね。 徳を受けて、又、徳も限りがない事ですけれども、限りなく広がりに広がっていく、おかげの世界に住む事が出来るね。
 そういう基礎と云うか、軌道に乗るまでが信心辛抱だと思うのですね。
 信心が楽しくなってくる、有難くなってくる、おかげがぢゃないですよ。
 そこから時間がかかる事も、難しいと云う事でも、成程、上から下に水を流すようなものではないけれども、下から上に水を流すように難しい事ではあるけれども、そこに信心の工夫がいる。
 いつの間に自分の心がこんなふうに有難くなってきただろうか、と思うように有難くなってくる、信心の修行が楽しくなってくる。 生き生きとして、いそいそとして、その信心に取り組ませて頂く事が出来るようになるまでが、私はやっぱり信心だ、と思うのです。 私共は神様とか仏様と云うのは、悲しい時の神頼み的なもののような観念から、ひとっつも抜け出られないね。
 神様を、まあ合楽の場合はお伺いが出来ますから、便利屋さんに使うとる、と云ったような事ではおかげにならんです。
 いよいよ肝心な事は、自分の良いようにするね。
 本当に神様を便利屋さんに使うような信心から、どうでもその信心が自分の血肉になっていく事を楽しむ、自分の心に有難い事が育っていく事を喜ぶ。
 自分の周辺に、その光が潤うていっておる様子を、暇がかかればかかる程、時間がかかればかかる程難しいけれども有難い、確かな信心を身に付けていけれる喜びの分かる所まで、一つ本気で信心の稽古をしたい。
 昨日、福岡の西原さんの例を話した事でしたけれども、夕べお参りをしに見えて、成程、お話しを聞いてみると、もう普通なら腹ン立ってこたえん、と云ったような時に、はあ、此処が馬鹿と阿呆になる、と親先生が云いなさる事かと思うて、本当に馬鹿と阿呆にならせて頂いたら、こげな嬉しい、有難い事は無かった、と。福岡から此処まで自動車で参って見える訳ですけども、感動が止まなかった、と。有難い、嬉しい、と云う心で今日はお参りが出来た、とこう云っておられますようにね。やはり教えに本気で取り組む事です。 これは、教えの味わいを感ずる序の口、と思いますけれどもね。 昨日、大和さんが実感されたね。
 毎朝、庭の御掃除を承っておられますが何でもない、但、そうして御用を一生懸命させて頂いておる、と云う事が、有難うして有難うして、とめどがない程有難かった。
 改めて、御取次頂いて御礼申し上げなければおられない。
 何が、そげん有難かったか。けれども、その有難い、と云う実感は、もう本当のものですからね。
 大和さん自身がそれこそ、神様から頂く喜び。
 その喜びが、又、神様へ返っていく。これが、お徳にならない筈がないね。
 そういう信心が身に付いていく、と云う事が、いよいよ楽しくなり、有難くなるね。
 只、腕こまねいておって、その喜びに触れると云う事は出来ません。
 難しいとか、暇が要るとか、と教祖は此処で使っておられるが、これは私の体験からも云える事です。
 成程、暇もかかった、時間もかかった。
 成程、難しい事もあったけれども、その難しかった時分の修行事を思うて、どうしてこんな難儀せなんだろうか、とは一つも思わなかったです。
 私は、その中にあっても兎に角、楽しく、有難かったですね。
 ですから何十年前の事を、はあ、あの時分な大変なこっちゃった、難しかった、と云うふうに思わない。
 兎に角、有難くそれを受け抜いて来た。
 時間がかかったらかかった程、今日頂いておるおかげを思う時に一年一年おかげを頂いて来た、そういう過程と云うものがあって今日の合楽があるね。
 これからもやはり同じ事が云えるでしょう。
 薫るようなおかげが頂ける為にもね。やはり時間をかけなければダメです。
 只、安気安穏のおかげを頂いておる、と云う事だけではいけません。その難しい事に挑戦する。と云うですかね。
 それが、合楽、御神意、御神愛を、深く分からせて頂く手立てとして頂ける信心を身に付けていきたい。
                        「どうぞ」